更新日:2013年9月24日

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文化財めぐり(碑文谷コース)

文化財めぐりは、2時間から3時間かけて目黒区内の文化財を見学して歩きます。平成23年3月13日(日曜日)に実施した文化財めぐりのコースを紹介します。

文化財めぐり(碑文谷コース)の行程

出発

9時30分 西小山(にしこやま)駅前出発

見学場所

  • 摩耶寺(まやじ)
  • 小山八幡神社(こやまはちまんじんじゃ)
  • 厳島神社(いつくしまじんじゃ)
  • 法界塚(ほうかいづか)
  • 円融寺(えんゆうじ)
  • 碑文谷八幡宮(ひもんやはちまんぐう)
  • 古民家(こみんか)(すずめのお宿緑地公園(すずめのおやどりょくちこうえん)内)

解散

12時 すずめのお宿緑地公園(すずめのおやどりょくちこうえん)解散

文化財めぐり(碑文谷コース)の概要

このコースは、旧碑文谷村(ひもんやむら)をめぐるコースです。
碑文谷村(ひもんやむら)は、衾村(ふすまむら)とともに都市化が目黒地域より遅れた地域で、昭和初期までは農村風景が広がっていました。

碑文谷村(ひもんやむら)の開発は、現在の目黒線西小山(にしこやま)駅、洗足(せんぞく)駅と東横線都立大学駅、学芸大学駅の周辺から行われました。

これらの駅から離れた碑文谷八幡宮(ひもんやはちまんぐう)、円融寺(えんゆうじ)の周辺は、昭和10年代にはまだ畑が多く見られましたが、昭和20年代以降は急速に住宅地へと開発され、現在の形になりました。

円融寺(えんゆうじ)は江戸時代まで、法華寺(ほっけじ)という名で日蓮宗(にちれんしゅう)の寺としてたいへんに栄えました。

このため碑文谷村(ひもんやむら)では、日蓮宗(にちれんしゅう)の信仰がさかんでした。今回は、この地域の成り立ちに関係する場所を巡ります。

文化財めぐり(碑文谷コース)見学場所の解説

1 西小山(にしこやま)駅周辺

西小山(にしこやま)は渋沢栄一が、小山八幡神社周辺の高台をイギリスの田園都市構想に沿って開発した住宅地です。大正12年(1923年)に目黒蒲田電気鉄道(東急旧目蒲線(めかません)の前身)が開業し、小山駅(現在の武蔵小山駅)が最寄り駅でした。西小山(にしこやま)駅は居住者の増加に伴い、昭和3年(1928年)に開設されました。

開発が進むと立会川(たちあいがわ)周辺に商店街が現れ、やがて料亭などの三業地(さんぎょうち)が形成され昭和初期には政財界の集まりも盛んでした。
しかし、昭和20年5月の空襲で、一帯は焼け野原となりました。
戦後は闇市が立ち、料亭なども復興してにぎわいましたが、現在では住宅地と商店街になっています。

2 摩耶寺(まやじ)(品川区荏原7丁目6番9号)

寛文(かんぶん)7年(1667年)に開かれた、池上本門寺(いけがみほんもんじ)を本山とする日蓮宗の寺です。

創建の経緯は不明ですが、碑文谷の法華寺(ほっけじ)が幕府により日蓮宗(にちれんしゅう)から改宗させられたことと関係しているといわれており、釈迦の母の摩耶夫人(まやぶにん)をまつっています。

境内左手の摩耶堂は天保(てんぽう)年間(1830年から1844年)のもので、延宝(えんぽう)6年(1678年)制作の摩耶夫人(まやぶにん)像を安置しています。

3 小山八幡神社(こやまはちまんじんじゃ)(品川区荏原7丁目5番14号)

創建年代は不明ですが、鎌倉時代には既にあったともいわれています。

かつては小山一帯の鎮守で、字名(あざな)から池ノ谷(いけのたに)八幡、あるいは妙見(みょうけん)菩薩をまつっていたので妙見(みょうけん)八幡とも呼ばれていました。
八幡神社付近は高台で、小山の地名はこの丘にちなむといわれています。

近くにある江戸見坂(えどみざか)からは、江戸市中が見えたそうです。

4 厳島神社(いつくしまじんじゃ)(品川区小山(こやま)7丁目5番)

旧碑文谷村(ひもんやむら)との境、小山(こやま)八幡神社の丘のふもとにある神社で、古くより里人により守られてきました。
境内の池は、丘に降った雨水がここで湧き出したもので、かつてこのあたりは「池の谷」と呼ばれていました。

5 法界塚(ほうかいづか)(目黒本町6丁目24番)

法界塚(ほうかいづか)の名は16世紀末の古文書にも見られることから由緒あるものと考えられますが、塚自体は法華寺(ほっけじ)に関係する経塚とも古墳とも伝えられ、詳しいことは不明です。

隣に建つ鬼子母神(きしぼじん)堂は、鬼子母神(きしぼじん)、十八番神をまつっています。江戸時代に安藤氏が勧請したもので、明治末に品川区西小山の摩耶寺(まやじ)からこの地へ移されました。

6 円融寺(えんゆうじ)(碑文谷1丁目22番22号)

慈覚大師(じかくだいし)が開いた寺といわれています。

仁寿(にんじゅ)3年(853年)に天台宗(てんだいしゅう)の法服寺(ほうふくじ)として建てられました。

弘安(こうあん)6年(1283年)に日源上人(にちげんしょうにん)により日蓮宗の法華寺(ほっけじ)に改められ、時々の権力者の庇護もあり一大勢力を築きました。

しかし、法華経信者以外の者からは施(ほどこ)しを受けず、また他宗の者へは施(ほどこ)しをせずという不受不施(ふじゅふせ)の教義を守ったことにより、江戸幕府によって元禄(げんろく)11年(1698年)に天台宗へ戻されました。

天保(てんぽう)5年(1834年)に名を円融寺(えんゆうじ)に改め、今日に至っています。

仁王門(区指定文化財)木造金剛力士像(都指定文化財)は、その彩色から「碑文谷の黒仁王さん」として親しまれ、江戸後期には庶民の信仰を集め賑わいました。また、本堂(釈迦堂)(重要文化財)は室町時代初期の建造といわれ、東京都23区内では最古の木造建造物です。

7 碑文谷(ひもんや)八幡宮(碑文谷(ひもんや)3丁目7番3号)

旧碑文谷(ひもんや)村の鎮守で応神天皇(おうじんてんのう)をまつっています。創建年代は不明ですが、鎌倉時代に畠山重忠(はたけやましげただ)の守護神を、家臣であった宮野氏がこの地にまつったのが起源といわれています。

本殿の隣には梵字(ぼんじ)を刻んだ碑文石(ひもんせき)が保存され、この石が碑文谷(ひもんや)という地名の由来とする説もあります。

参道から立会川緑道(たちあいがわりょくどう)へ桜の樹が続き、春には花のトンネルになります。

8 古民家(碑文谷3丁目11番22号)

区立すずめのお宿緑地公園の一画に建つ古民家は、旧衾村(ふすまむら)の旧家、栗山家の主屋を移築し復元したものです。主屋の建築年代は江戸時代中期頃と考えられ、茅葺(かやぶき)屋根を銅板葺(どうばんぶき)に替えましたが、ほぼ往時の姿を残しています。

この公園の名は、昔、たくさんのスズメがこの竹林をねぐらにしていたことから付けられました。区内の竹林はほとんどが姿を消してしまいましたが、かつて目黒が“目黒の筍”というブランド筍の産地であったことを思わせる数少ない場所です。

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生涯学習課 文化財係