文化財めぐり(目黒駅周辺コース)

更新日:2013年9月24日

文化財めぐりは、2時間から3時間かけて目黒区内の文化財を見学して歩きます。平成22年9月12日(日曜日)に実施した文化財めぐりのコースを紹介します。

文化財めぐり(目黒駅周辺コース)の行程

出発

9時30分 目黒駅出発

見学場所

  • 大円寺(だいえんじ)
  • 目黒撮影所跡
  • 海軍大学校跡
  • 誕生八幡神社(たんじょうはちまんじんじゃ)
  • 高福院(こうふくいん)

解散

12時 高福院(こうふくいん)解散

文化財めぐり(目黒駅周辺コース)の概要

このコースは、旧下目黒村から上大崎村にかけて、目黒区と品川区の境を歩くコースです。

目黒駅は品川区にあり、目黒区内にJRの駅はありません。
一説に、明治期の鉄道敷設の際、住民の反対があり淀橋台上の現在地に追い遣られたという鉄道忌避説(きひせつ)があります。しかし、忌避説(きひせつ)の真偽を確認できる資料はなく、真相は不明です。

目黒駅西側、行人坂(ぎょうにんざか)の上は、かつては景勝の地で夕日の岡(ゆうひのおか)と呼ばれ、はるかに富士山の雄大な姿を望むことができました。

行人坂は、現在では目黒通り沿いの狭い脇道ですが、かつては坂道沿いに大円寺(だいえんじ)、明王院(みょうおういん)などがあり、江戸から目黒に抜ける主要な交通路でした。

目黒川に架かる太鼓(たいこ)橋も、太鼓(たいこ)の胴のようなアーチ型の石橋で名所のひとつでしたが、今ではその名が伝わるのみです。

このあと目黒川に沿って川を下り、ドレメ通りから坂を上り目黒撮影所跡、さらに山手線を越えて海軍大学校跡、誕生八幡神社(たんじょうはちまんじんじゃ)、高福院(こうふくいん)をめぐります。

文化財めぐり(目黒駅周辺コース)の見学場所の解説

1 夕日の岡(ゆうひのおか)

目黒駅のあたりは高台の地で、目黒川に続く荏原台(えばらだい)の方角に沈む夕日が趣深く、「夕日の岡(ゆうひのおか)」と呼ばれていました。

江戸後期に刊行された『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』には挿絵(さしえ)入りで紹介されていますが、「昔は紅葉が一面に生い茂り、晩秋の頃は夕日が照り映え見事であったが、今は紅葉も少なく、その名だけが伝わっている」と書かれていて、当時、既に様子が変わっていたことがわかります。
しかし、はるか西南に富士山を望む景勝地であったことに変わりはなく、『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』には行人坂上の富士見茶屋(ふじみちゃや)で人々が休憩する様子も描かれています。

2 大円寺(だいえんじ)(目黒区下目黒一丁目8番5号)

寛永(かんえい)年間(1624年から1644年)のはじめ頃、湯殿山(ゆどのさん)の修行僧大海法印(たいかいほういん)が現在の行人坂を切り開き、大日如来を祀って祈願所を開設したのが始まりと伝えられています。

現在、重要文化財の釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)、区指定文化財の十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)、山手七福神の大黒天などが安置されています。

明和(めいわ)9年(1772年)2月、この寺の本堂から出た火は、江戸の三分の一を焼く大火となり多くの死傷者を出しました。本堂脇の崖面には、この目黒行人坂大火の犠牲者を慰霊するために建てれた石仏群(せきぶつぐん)(都指定文化財)がならんでいます。

3 太鼓橋(たいこばし)

太鼓橋(たいこばし)は、行人坂から目黒不動へ向かう道筋の目黒川にかかる橋です。明和(めいわ)6年(1769年)に完成し、長さ8間(けん)3尺(約15.3メートル)、幅2間(けん)(約3.6メートル)、太鼓の胴のような形をした石橋でした。

広重の『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』の中にも描かれた橋でしたが、大正9年9月1日の豪雨で崩落しました。翌年、木橋が架けられ、昭和7年に東京市編入記念事業として鉄橋に架け替えられ、平成3年の目黒川改修工事に伴い現在の橋になりなした。太鼓形ではありませんが、橋名は昔のまま受け継がれています。

4 羅漢寺川(らかんじがわ)

区立目黒本町(めぐろほんちょう)図書館(目黒本町(めぐろほんちょう)二丁目1番)付近は、昔、文右衛門窪(ぶんえもんくぼ)と呼ばれていました。

羅漢寺(らかんじ)川はこのあたりを水源とし、品川区との境、小山台公園の下を流れ、林試の森公園(りんしのもりこうえん)の北、目黒不動の門前、羅漢寺(らかんじ)の前を通り、目黒雅叙園(めぐろがじょえん)の向い側、下目黒2丁目8番付近で目黒川に注ぐ支流です。羅漢寺(らかんじ)は明治41年(1908年)に深川から現在地に移転してきたので、それ以前は川の名称はなかったものと思われます。

現在では、水源から目黒川合流点まで全て暗渠(あんきょ)となっています。この川にはさらに入谷川(いりやがわ)、六畝川(ろくせがわ)、林試の森の中央部を北に流れる川など、いくつかの支流がありました。

5 目黒撮影所跡(下目黒一丁目8番から品川区上大崎四丁目5番一帯)

映画は明治29年(1896年)日本で初めて紹介されました。これに注目した貿易会社吉沢商店(よしざわしょうてん)の店主、河浦謙一(てんしゅ かわうらけんいち)は、明治41年(1908年)に日本初の映画撮影所を開設しました。この目黒撮影所は、天井・屋根、壁面の上部をガラス張りにして自然光を取り入れたグラスステージが有名でした。

大正元年(1912年)、吉沢商店(よしざわしょうてん)を含む国内映画会社4社が合併し、日本活動写真株式会社(日活(にっかつ))が設立されます。墨田区向島に新たに撮影所が開設され、目黒撮影所は次第に使用されなくなりやがて閉鎖されました。現在では当時をしのぶものは残っていません。

6 杉野学園(品川区上大崎四丁目5番)

大正15年(1926年)に杉野芳子(すぎのよしこ)が芝に開設したドレスメーカー・スクールが始まりで、大正15年11月に現在地に移転しました。日本に洋風の生活が定着すると、衣生活も変化し洋服が中心になるという信念のもと、洋裁の普及に努め多くの人材を育成してきました。現在では4年制の杉野服飾大学(すぎのふくしょくだいがく)を中心にこの地域の文教施設として定着し、学園前の通りはドレメ通りと呼ばれています。

7海軍大学校跡(品川区上大崎二丁目10番)

海軍大学校は旧海軍における上級将校教育機関です。明治21年(1888年)、東京築地に設置され、昭和7年(1932年)に品川区上大崎の陸軍衛生材料廠(えいせいざいりょうしょう)跡に移転しました。
庁舎と呼ばれた校舎を中心に兵棋演習場(へいぎえんしゅうじょう)、科学実験場などを備えた大規模な施設でしたが、昭和20年(1945年)の終戦により廃校となりました。

戦後、海軍大学校の建物は、国立予防衛生研究所や映画撮影所として活用されましたが、予防衛生研究所は平成4年(1992年)に新宿区戸山に移転し、また映画撮影所も閉鎖されて残った本社も平成14年(2002年)には移転し、取り壊されました。現在では大規模なマンションが建ち、当時をしのばせるものは残されていません。

8 誕生八幡(たんじょうはちまん)神社(品川区上大崎二丁目13番36号)

戦国時代の文明(ぶんめい)年間(1469年から1487年)、太田道灌(おおたどうかん)が夫人の安産を祈って勧請し、無事男子が生まれたので誕生八幡(たんじょうはちまん)と呼ばれるようになったと伝えられています。

目黒通りの拡幅で境内地を削られ、コンクリート造りの社務所(しゃむしょ)の上に木造の社殿(しゃでん)を安置しています。

9 高福院(こうふくいん)(品川区上大崎二丁目13番36号)

寛永(かんえい)年間(1624年から1644年)に香川の高松藩主松平讃岐守(たかまつはんしゅまつだいらさぬきのかみ)が、現在の国立自然教育園一帯に下屋敷(しもやしき)を拝領した折に創建したといわれています。

墓地には大正から昭和期にかけて活躍した、劇作家・小説家の長谷川伸(はせがわしん)、版画家の恩地孝四郎(おんちこうしろう)、江戸時代後期の蘭学医石井宗謙(いしいそうけん)の墓があります。石井宗謙(いしいそうけん)はシーボルトの鳴滝塾(なるたきじゅく)に学んだ人物で、シーボルトの娘いねに産科の技術と知識を指導しました。