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目黒の坂 柿の木坂

更新日:2014年2月3日

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の坂 柿の木坂

「もやって上がろうや」
「そうだね」
「そっちのは重そうだのう」
「今年は作柄がよくて、張り合いがでますわ」

昔、目黒から世田谷方面のお百姓さんたちは、神田や京橋、赤羽の市場に野菜を出荷していたが、途中の柿の木坂は、急坂で曲っていたので、重い大八車を1人ではとても引き上げることができない。そこで初めから、3人から4人で組みを作り、坂にくると互いに手を貸し合い、1台坂上に押し上げては、坂下に降りてきて、次の車を押し上げ、また降りてきて次の車を上げる。こうして全部押し上げてから、みんなそろって出かけて行ったという。

当時の模様を八雲三丁目の栗山さんは、次のように語っている。「朝早くといっても、夜の明けない2時か3時ころタケノコや野菜を山と積んで市場に売りに行ったものです。大八車には、名入りのちょうちんをぶら下げていくのですが、途中でローソクの火が消えて真暗ななかを黙々と歩き、朝明けるころ市場に着き、荷をさばいて帰りには、三田や白金台町あたりから下肥えを買ってきたものです。

道中、最初の難所が柿の木坂で、次が権之助坂だったですね。柿の木坂は、昔は大山街道(栗山さんの話のまま)といいまして、今の八雲小学校の前の道ですが、幅は4間ほどの広い道路でした。坂は、今では想像もつかないくらい急で曲っていて、両側には清水が湧いていました。坂下の呑川もそれはきれいで、ふなやこい、うなぎがいてよくとったものです。たまには水浴びもしましたね」

また、自由が丘ニ丁目に住む杉村元次郎さんも当時をふりかえり
「小学校のころよく車の後押しにつれていかれました。たいてい柿の木坂か権之助坂までですが、後押しに行かないと学校にやらせてもらえないので、仕方なく行ったものです。ときには、大八車にかばんをくくりつけて…」

お二人のお話からもわかるように、昔の柿の木坂はお百姓さんたちの通行に大きな障害となっていたようである。

高級住宅のまち・柿の木坂

さて、現在の柿の木坂はどうであろうか。一般に柿の木坂というと、「坂」より「まち」の方が知られている。現在は、住居表示によって柿の木坂は、一丁目から三丁目までとなり、世帯数は約4000人、人口は約8000人ほどである。

ところで、今日の基礎づくりは、大正末期から昭和初期のころの地主によって行なわれたといってよい。当時、地主たちは、どうせ自分たちの土地を貸すのなら、こま切れにしないで大きい区画にし、大きな土地を借りる能力のある人を対象にしよう。そうすればりっぱな人が集まり、住みよい住宅のまちができるのではないかという考え方があったようだ。今日の柿の木坂は、自然発生的に生まれたのではなく、そこには、地主の都市計画があったのである。

「柿の木坂」の由来

最後に、「柿の木坂」の由来をたずねてみよう。

かきぬき坂

昔、このあたりの農民は、朝早く起きて、野菜などを手車に積んで市中に売りに出かけていた。途中、坂が多いので、3人、4人と組を作って出かけ、大きな坂にくると、組同志で順々に車を坂の上まで押し上げて登った。1台押し上げては、また坂の下の次の車をみんなで押した。

これを見ていた子供たちは、坂の上に押し上げられた人のいない車の中から柿を抜きとっては逃げ、農家の人を困らせていた。そんなことが繰り返されているうちに、だれというとなく「柿ぬき坂」と呼び、それがなまって「柿の木坂」となったのだという。

柿の木から

また一説によると、このあたりは柿の木が多く、特に坂のそばに、ひときわ大きな柿の木があったことから、柿の木坂と呼ばれるようになったのだという。

かけ抜け坂

このあたり一帯は、人家が少なく、夕暮れになると人の往来がぱったり途絶え、さびしい坂だったので、みんながこの坂をかけ抜けて通ったという。そんなことから「かけ抜け坂」となり、なまって「柿の木坂」になったという。

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