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目黒のみち

「目黒のみち」は、「月刊めぐろ」昭和47年3月号から昭和59年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

田園都市線・井の頭線エリア

駒場東大前の道

渋谷駅から井の頭線に乗って2つ目、駒場東大前駅で下車すると、東大教養学部正門が目に入ります。門から続くなだらかな坂道を線路沿いに西へ向かい、駒場小学校の前で左手の踏切を渡ると、区立駒場野公園が見えてきます。

 

御成道(おなりみち)

江戸時代、将軍の御用屋敷と狩り場を結んでいた道が、駒場高校正門前から、まっすぐ井の頭線の踏み切り下へ下る道です。将軍がいつも通るところから「御成道」と呼ばれてきました。

 

淡島通りの地蔵尊

玉川通りを大坂上で分かれて西へ進む補助52号線、通称淡島通りが世田谷区へ入る地点、駒場二丁目17番に「〆切地蔵」と呼ばれる地蔵尊が見えます。

 

旧大山道

江戸から大山へ向かう道(大山道)は幾つか開かれていましたが、中でも赤坂見附から青山、宮益坂、道玄坂を経て青葉台四丁目の大教寺前の急坂(旧大坂)を下り、大橋氷川神社下を通って池尻へ抜ける道が、享保年間からの主要道でした。今の玉川通りがほぼそれに当たります。

 

旧山手通り

若い人たちに人気の高い代官山。旧山手通りは、その街の南端、レストランや小物店などの入った共同店舗「ヒルサイド・テラス」近くを起点に、渋谷区と目黒区(青葉台一丁目から四丁目)の区境を走る都道です。

 

鴻巣橋とオリンピック道路

山手通りの青葉台一丁目交差点から世田谷区下馬方面へ通じる道は、オリンピック道路と呼ばれています。昭和15年開催予定であった東京オリンピックに備えて、渋谷から当時競技場建設予定地であった駒沢公園方面へ通じる道として、昭和12年ごろに工事されたからです。

 

鎌倉街道

渋谷区代官山から目切坂を下り、宿山橋を渡って山手通りを越えると二つ道があります。右手の小川坂・蛇崩・祐天寺駅・円融寺・碑文谷八幡宮へと続く道が、鎌倉街道の一つ、「中つ道」です。

東横線・日比谷線エリア

 

芦毛塚の道

五本木一丁目辺り、世田谷区との区境を成す道路の中央に、シラカシやサイカチなどが繁った「芦毛塚(あしげづか)」があります。この塚については諸説がありますが、「江戸名所図会」・「新編武蔵風土記稿」には「頼朝が乗っていた芦毛の馬が死んだので埋葬した」という話が記されています。

 

油面地蔵通り

目黒消防署の筋向かいの油面(あぶらめん)交番を北に入る道が、高地蔵尊を中心として栄える商店街、油面地蔵通りです。子育て・眼病にも霊験あらたかとして、地蔵尊には多くの人がお参りしています。

旧区役所通り(現 中央中通り)

以前、「区役所通り」と呼ばれていた道は、目黒通りから目黒区役所があった中央町ニ丁目4番前までのバス通り部分です。平成15年に目黒区役所が上目黒ニ丁目に移転した後は、「中央中通り」となりました。

 

オリンピック道路

玉川通りと駒沢通りの間、西郷山・蛇崩を経て、東京医療センター裏へ続くバス通りは、通称「オリンピック道路」と呼ばれています。昭和15年に東京で開催されることになっていた第12回オリンピックに備え、競技場建設予定地であった駒沢公園辺りに通じる主要道路として造られた道です。

 

環七通り

区内西部を分断するように走る環七通りは、大田区から江戸川区までの11区にまたがり、都道として最大の規模を持ちます。現在の総延長は52.5キロメートルで、うち2.4キロメートルが目黒区を横切っています。

 

東横線の階段陸橋

東横線をまたぐ陸橋が、学芸大学から都立大学駅の間に3カ所あります。一つは環状七号線で、あとの二つは、柿の木坂一丁目に架けられた陸橋です。この辺りは、荏原台と呼ばれる丘陵地帯の一部で、東横線はここでは高台を切り通して敷設されているため、陸橋は切り通しの上に架けられています。

 

八雲通り

沿道に古社寺が連なり、近年まで数百年間にわたって旧衾村地域のメインストリートとして栄えてきたこの「八雲通り」を、昭和初期まで、乗り合い馬車がラッパを鳴らしながら、行き交っていたといいます。

 

呑川本流緑道

昭和10年ころまでは、水車も見られたと言われていますが、世田谷区深沢一丁目から八雲三丁目31番に入る本流と、これに合流する2本の支流は、昭和47年からともに暗きょ化され、上は緑道となりました。

 

呑川柿の木坂支流緑道

呑川支流は、かつて世田谷区の住宅街を縫って流れ、東が丘一丁目35番先で目黒区に入り、柿の木坂三丁目からニ丁目・一丁目を経て目黒通りの下をくぐり、中根一丁目3番先で呑川本流に注いでいました。現在は暗きょ化され、緑道となっています。

 

お稲荷さんのある路地

この路地は、令和5年に自由が丘駅前再開発のため街から姿を消しました。かつては、東横線自由が丘駅前ロータリーから、時計店と茶舗の間の細い路地を入ると、左手に小さなお稲荷さんがまつられていました。

 

九品仏川緑道

東横線自由が丘駅の駅前広場から、南へ進んで踏切を渡ると、東西に延びる緑道があります。昭和49年に九品仏川(くほんぶつがわ)にふたがけしてできた、長さ約921.4メートル(目黒区管理分)の九品仏川緑道であります。

目黒線・大井町線エリア

 

品川用水跡の道

品川用水は、かつて五本木三丁目32番で世田谷区から目黒区内に入り、目黒郵便局前を経て、目黒・品川の区境沿いに品川区戸越へ流れていました。現在は、清水池公園に移されている「池ノ上橋」が、わずかに用水の面影をとどめるのみです。

 

平和通り

目黒本町四丁目と五丁目、六丁目の境にある「平和通り商店街」。「平和通り」という名称は、戦争からの復興に力を注いだ商店主たちが、平和への願いを込めて命名したものと言われています。

 

碑さくら通り

碑さくら通りは、区立七中前から環七通りに向かって、真っすぐに延びているバス通り。その中程で、異国情緒を醸し出すサレジオ教会が、ひときわ印象的な道です。

 

立会川緑道

碑文谷三丁目の碑文谷八幡宮前から向原小学校を経て、品川区境の東急目黒線西小山駅まで1キロメートルにわたって立会川緑道が続いています。かつては小魚が泳ぎホタルが飛び交ったという立会川に、ふたがかけられ暗きょとなったのは昭和39年のことです。

 

文人の散歩道

第3回菊池寛賞を受けた田中貢太郎は、昭和2年、今の原町ニ丁目3番の原町交番バス停近くに居を移し、文筆活動に務める傍ら、よく付近を散策していました。

山手線目黒駅・目黒通りエリア

 

都電の通っていた坂

この坂は、昭和2年に恵比寿から中目黒間の玉川電気鉄道敷設の際、整備・拡張された道です。玉電は、昭和23年都に譲渡されて都電となり、昭和42年に廃止されました。

 

目黒銀座

伊勢脇通りと呼ばれるこの道は、東横線中目黒駅のほぼ東側を祐天寺方向に延びる商店街です。平成14年3月には中目黒GTが完成し、平成15年1月には目黒区役所が移転してきました。

 

目黒駅からアメリカ橋

JR目黒駅西口から線路に沿って、恵比寿駅に通じる道があります。しゃれたブティックや喫茶店を階下に構えるマンション群を過ぎ、三田一丁目と二丁目境の道を通り抜けると、その先右手に「アメリカ橋」が見えてきます。

 

谷戸前川緑道(やとまえがわりょくどう)

目黒駅から三軒茶屋行きのバスに乗り、自然園下の停留所で降りると、五差路の一つに民家の間を縫うようにして続く細い道が目に入ります。これが、長さ約370メートルの「谷戸前川(やとまえがわ)緑道」です。

 

電車道

権之助坂の下、目黒川に架かる新橋のたもとから、不動前方面へ向けて斜めに走る道があります。歩道を含め、最大幅員18メートルに及ぶ立派な道ですが、山手通りに交差した途端こつ然と途切れる、太く短い道です。

 

ドレメ通りと目黒撮影所跡

太鼓橋を渡り、行人坂を上りきると、品川区上大崎四丁目3番と4番の間から南へ延びる道があります。両側に服飾大学の校舎が建ち並び、思い思いのファッションに身を包んだ女学生が行き来するため、ドレメ通りと呼ばれています。

 

目黒競馬場外周の道

目黒消防署の裏手一帯、下目黒四丁目・五丁目・六丁目にかけて続く住宅街は、第1回日本ダービーの開催地として知られる目黒競馬場の移転跡です。住宅街を縫うように、きれいな弧を描いて続く「競馬場外周の道」は、当時の名残をとどめています。

 

清水稲荷通り

目黒通りの「目黒四中交差点」を品川方面へ折れると、すぐ左側に清水稲荷神社があります。明治30年ごろ、ここより少し西寄り(現・東急バス車庫近く)の、清水がこんこんと湧き出ていた地に、渋谷から移り住んできた人によって祭られたと言われています。