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目黒の坂

田園都市線・井の頭線エリア

松見坂

全長171メートル 高低差4.8メートル 平均斜度2.44パーセント

約450年以上前、現在の環状6号線と淡島通りの交差する駒場一丁目付近にいた、渋谷の道玄坂の由来となった人物である道玄太郎という山賊が、松の大木に登り旅人を狙っていました。この松の木は「道玄物見の松」と呼ばれ、そこから物見坂という名がついたとされています。

田んぼに囲まれていた松見坂ですが、時代とともに需要に応えるべくいく度となく道路開発工事が行われました。

 

大坂

全長160メートル 高低差10メートル 平均斜度5.48パーセント

江戸時代、厚木街道一番の難所とされ、40余りの坂の中で最も大きな坂であったことから大坂という名がついたとされています。

当時、相模川で補れた鮎を、厚木から江戸へ夜通し担ぎ運んだ若者たちが急坂の苦しさを「鮎はナーエ、大坂くげんだ団子屋起きたか」と歌ったそうです。

路面電車の開通(明治40年)のころから姿をかえ、今日では、前述の話からは想像もつかないほどゆるやかに変わっています。

 

目切坂

全長251メートル 高低差13.4メートル 平均斜度5.27パーセント

青葉台一丁目と上目黒一丁目の境をいくつかに折れ曲がり、西に下るこの坂上で伊藤與右ヱ門という者が石臼の目を切る仕事をしていたことから目切坂という名がついたとされています。昔、鎌倉街道の途中にある、樹木が生い茂り昼でも暗かった林を通っていたためか「くらやみ坂」または「しめ切坂」などとも呼ばれていました。

坂の形は、今も昔もあまり変わりなく残っています。

 

小川坂

全長395メートル 高低差9.8メートル 平均斜度2.27パーセント

弓のような弧を描く緩やかな坂で、周辺に旧家小川家所有の土地が多かったことから、小川坂という名がついたとされています。

昔、坂東武者が鎌倉を目指して駆けたこの坂は、現代の馬である自動車にとっても下りだけの一方通行となっています。

 

東横線・日比谷線エリア

謡坂(うたいざか)

全長171メートル 高低差3.4メートル 平均斜度1.91パーセント

諸説あるが、「ウタイ」の語源がアイヌ語のウタ(出崎)を意味し、昔は大きな川だった蛇崩川に出崎があり、そこをこの坂がう回していたことから、謡坂と名がつけられたとされています。

謡坂という坂は、近畿以東に40余りもあるといわれています。

 

柿の木坂

全長273メートル 高低差9.6メートル 平均斜度3.36パーセント

名前の由来は主に3つあります。

1つ目は、農民が野菜などを手車に積み売りに出る際、坂では車を順に押し上げて運び、これを見た子どもたちが無人の車から柿を抜いて困らせたことから「柿ぬき坂」と呼ばれたこと。

2つ目は、柿の木が多く、特に坂のそばにひときわ大きな柿の木があったこと。

3つ目は、夕暮れになると人の往来が途絶え寂しい坂だったので、みんながこの坂をかけ抜けて通ったことから「かけ抜け坂」と呼ばれたこと。

昔の柿の木坂は、大八車を引くお百姓さんたちの通行に大きな障害となっていたそうです。

 

鉄飛坂(てっぴざか)

全長114メートル 高低差5.7メートル 平均斜度4.53パーセント

徳川幕府の初期時代、佐渡金山奉行であった大久保石見守長安が、ポルトガル人「ヒモンヤス」と「テッピョウス」の2人に、鉱山採掘の方法を聴問し、佐渡金山の大改善を行おうとしたことがあったことから鉄飛坂と名がつけられたとされていますが、名前の由来は他にも多くの説があります。

 

蜀江坂(しょっこうざか)

1365年、世田谷城主の吉良治家が、わが子の死を悼んで東岡寺(東光寺)を建立した際に、蜀江の綿、七条の袈裟と土地を寄進したことから蜀江坂と名がつけられたとされています。

かつては中根二丁目18番を西(立源寺裏)から東(呑川)に下る農道でしたが、昭和初期に行われた耕地整理によって廃道となり、現在は5,6メートル幅の道路で整然と区割りされた閑静な住宅地となっています。

 

しどめ坂

全長142メートル 高低差5.5メートル 平均斜度3.9パーセント

昔、しどめ(クサボケ)が群生していたことからしどめ坂と名がつけられたとされています。

目黒通りから、八雲三丁目11番と12番の間を呑川緑道へ下る急坂で、戦前、この辺りは雑木林で畑が多かったが、耕地整理が進み住宅地となり、坂の途中にわずかに残された畑が、昔の面影をしのばせています。

 

谷畑坂(やばたざか)

全長175メートル 高低差7.2メートル 平均斜度4.1パーセント

6つの村に分かれていた旧目黒のうち、自由が丘一帯が属していた衾(ふすま)村には、東根・平根・中根・谷畑の四つの字があり、字名にちなんで谷畑坂と名がつけられたとされています。

「衾の不思議三つござる 曲り松、鷺草さぎそうに竹の二股」という麦打唄があり、今では閑静な住宅街ですが当時は麦を打つくるり棒の音と農民の歌声が響いていたのかもしれせん。

 

寺郷の坂

全長110m 高低差1.9m 平均斜度1.55パーセント

「衾(ふすま)の茶屋坂」とも呼ばれ、区内にあるもう一つの茶屋坂とされています。江戸時代の初め、奥沢の浄真寺参りの人びとを当て込んた4軒の水茶屋があり、中根公園の森があることからも、茶屋が一休みするのに格好な場所にあったことがわかります。

 

山手線目黒駅・目黒通りエリア

別所坂

全長228メートル 高低差19.3メートル 平均斜度7.86パーセント

この坂を下ったところに別所と呼ばれた地名があったことから、別所坂と名がつけられたとされています。

江戸の人びとが麻布辺りから目黒に入る近道として重要な交通路であり、坂上は眺めが良く、目黒元富士とともに江戸名所の一つとして、行楽客に親しまれていました。

現在も冬から春にかけての朝であれば、坂上から富士が見えることがあります。

 

けこぼ坂

全長400メートル 高低差22.4メートル 平均斜度5.05パーセント

急な箇所を切り取る工事を繰り返した結果、斜面が崩れやすく赤土のかたまりがこぼれ落ちるようになり、この状態を古い目黒の方言で「けこぼ」と呼ぶことからけこぼ坂と名がついたとされています。祐天寺前から碑文谷に至る交通の要衝であったけこぼ坂は駒沢通りとなり、現在も主要な交通路となっています。

 

茶屋坂

全長233メートル 高低差17メートル 平均斜度6.9パーセント

江戸の初め、この坂の上に1軒の茶屋があり、三代目将軍家光が目黒筋遊猟の帰りよく休息をとっていました。この茶屋は、家光が茶屋の主人の人柄を愛し「爺、爺」と話しかけたため「爺々が茶屋」と呼ばれ、茶屋坂という名がつけられたとされています。落語「目黒のさんま」で将軍がさんまを食べた茶屋として登場しています。

 

新茶屋坂

全長430メートル 高低差12.4メートル 平均斜度3.22パーセント

坂の途中で合流している茶屋坂に対して、昭和3年に開かれた新しい坂道ということで、新茶屋坂という名がつけられたとされています。かつての海軍技術研究所に沿って続く勾配の緩やかな長い坂道です。

 

なべころ坂

全長183メートル 高低差9.8メートル 平均斜度4.57パーセント

鍋が転がるほどの急坂であったことから名がついた説と、赤土が水で柔らかくなった状態を示す、目黒の古い方言「なべごろ」から名がついた説があります。

当時は用途が少なかったため手を加えられることもなく、赤土層が露出していたため、冬の雪の日や春の霜解けなどには赤土がぬかっていたそうです。

 

ばくろ坂

全長175メートル 高低差9.3メートル 平均斜度5.08パーセント

地形上思い切った切り通し工事ができず、路面はいつも風雨にさらされ大小の穴があいていたため、人びとはこの坂を風雨にさらされ穴のあいた状態を示す目黒の古い方言である「ばくろ」と言い、ばくろ坂と名がついたとされています。目黒三丁目と中目黒四丁目の境の坂、永隆寺の南側を東に下る急坂です。

 

権之助坂(ごんのすけざか)

全長356メートル 高低差10.8メートル 平均斜度2.8パーセント

江戸中期、村人のために行った行為で罪に問われた菅沼権之助が、刑に処される前この坂の上から生家を一目見たいと望み、未来を案じながらも落ち着いた様子を見せていた。この態度や村に尽くした功績を称え、最後に村を振り返ったこの坂を権之助坂と呼ぶようになり、名が付いたとされています。

 

行人坂(ぎょうにんざか)

全長240メートル 高低差18.2メートル 平均斜度7.2パーセント

湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったことから、行人坂という名がついたとされています。目黒川の太鼓橋から雅叙園西脇を通り目黒駅の東方に上る急坂で、「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火の一つ、「行仁坂火事」とも関連して知られています。

 

十七が坂

全長72メートル 高低差9.1メートル 平均斜度11.5パーセント

あまりの急坂であったため、子どもが坂道の途中で転ぶと17歳の時不祥事が起きるということから、十七が坂という名がついたとされています。

宿山と目黒不動尊を結ぶ庚申道の難関がこの坂であったため、利用するのは若者ばかりで、老人や子どもは坂下から西方へ迂回する回り道を利用しました。

 

金毘羅坂(こんぴらざか)

全長263メートル 高低差6.5メートル 平均斜度2.4パーセント

明治の中ごろまで、坂の付近に金毘羅社(目黒三丁目)があったことから金毘羅坂という名がついたとされています。目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高等学校あたりまで上る坂道で、明治40年、坂上に目黒競馬場ができてからは競馬場へ向かう人びとがあふれていたといいます。当時の道幅は約8メートルで、現在は3倍の約25メートルになっています。

 

石古坂(いしこざか)

全長127メートル 高低差4.9メートル 平均斜度2.09パーセント

石ころが多い坂だから、または江戸の「府内場末其他沿革図書」には「石河坂」とあり、そこから転じて石古坂という名がついたとされています。

下目黒三丁目と品川区小山台一丁目の境、都立林試の森公園正門前にあり、坂下の目黒不動商店街付近には、昭和18年ごろまで、何軒もの芸者屋があり、稽古三味線の音がよく聞けたそうです。

 

三折坂(みおりざか)

全長154メートル 高低差7.9メートル 平均斜度4.9パーセント

目黒不動(滝泉寺)の裏山の十字路に、甘藷先生(青木昆陽)の墓所を示す道標が立っていて、そこから同寺の仁王門に向かって、S字状に下る坂道を三折坂といいます。

縁日や10月の甘藷祭りともなると大勢の参拝客でにぎわう坂道です。