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更新日:2014年2月4日

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目黒の坂 権之助坂(ごんのすけざか)

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

権之助坂の由来

江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、ひと目見たい」と答える。

馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。

村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。

また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。

昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。

坂に見る時代の流れ

昔は、行人坂が江戸市中から目黒筋に通じる幹線道路であったが、権之助坂が開かれ明治にはいって鉄道が敷設されると坂の主役は、権之助坂の方に移ってくることになった。

とはいっても、明治のころの権之助坂は、現在の坂より急で車馬の往来が激しく、ときには馬もろともわきの杉林に落ちることもあったというから、決して十分ではなかったことがわかる。坂下から新橋までの間は地盤が低く、大雨で目黒川が氾濫すると橋だけが水面に頭を出していることがあった。目黒川には、水車が数カ所あったので、氾濫の一因となったのではないかという。

新橋と行人坂下の太鼓橋との間には梨畑があって、行楽客の休憩所にもなっていたが、たびたびの出水で梨の木が枯れてしまい、その後に盛土して開業したのが現在の太鼓鰻という。

昭和にはいってから権之助坂の南側一部分譲されて家が建てられた。そのころの模様を、古くから住む大円寺の福田芳江さんは、次のように語ってくれた。「権之助坂は、今の行人坂より狭く、向こう側(北側)は、久米邸の石垣になっていて、そこに萩の花がこぼれるように咲いて、それはきれいでした。ホタルがたくさんいましたね。あるとき、ホタルが5つ6つかたまって飛んでいるのが火の玉のように見えて、腰が抜けるほどびっくりしたことがありました。そこここにスズムシやマツムシが鳴いていて、思わず立ち止まったものです」

権之助坂

さて、商店街はというと、ここの商業の歴史は意外と浅い。戦時中は、駅付近に若干の商店があっただけのさびしいところで、追いはぎも出たことがあるという。そんなところに、戦後ボツボツ露店が立ち並ぶようになり、やがて定着して店舗を構え、地元のお客を相手にゆうゆうと繁昌を続け今日の隆盛を見るに至った。

ところが、昭和42年11月、ターミナルビル、ステーションビルが次々に完成し、中央から有名店、老舗が進出してくると、地元商店街の様子も一変し、それまでビルができれば人が集まるという期待とは裏腹にさっぱり客が流れなくなったという。「つかの間の太平の夢から、いっぺんにさまされた」とある商店主はいっているが、ここにも激しい時代の移り変わりを見る思いがする。

坂の方も、権之助坂のわき腹をけずるように、放射3号支線一が開通し、権之助坂は下りの一方通行にされてしまったが、それでも朝夕は車の洪水をさばき切れずにあえいでいる。権之助も土の下で苦笑していることだろう。

権之助坂周辺の地図
権之助坂周辺

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