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更新日:2014年1月29日

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目黒の地名 五本木(ごほんぎ)

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 五本木

「五本木」のほか、かつての「中一ツ木」(現八雲三丁目付近)、隣りの港区の「六本木」など、数字と木が組み合わされた地名は、枚挙にいとまがない。

昭和43年1月1日、それまでの上目黒五丁目、三谷町の一部および中目黒三丁目の一部は、「住居表示に関する法律」による町名変更で、五本木一丁目・二丁目・三丁目となった。昭和7年の区制施行によって姿を消した五本木という地名が、ここに再び登場したのである。

旧守屋教育会館郷土資料室(目黒区五本木二丁目)裏手の庚申塔群の中に、「上目黒五本木組 庚申供養塔 文化七庚午年十一月吉日」と記されている碑面がある。江戸時代の村には、「組」という小行政単位があって、年貢の徴収や生活共同体としての機能を持っていた。明治22年まで続いた目黒六カ村の一つ上目黒村は、上知(あげち)、宿山、石川、五本木という四つの「組」から成っていた。

こうした組は、江戸時代以前からあった集落を母体としていたというから、五本木という地名は、室町さらには鎌倉時代へとさかのぼれるだろうが、そもそもの由来は、五本の大樹があり、それがこの地の特徴を成していたことから、地名となったのではないかといわれている。前述の庚申塔群の前を走る細い道は、鎌倉幕府の勢力下にあった関東八州と鎌倉を結ぶため、各地に発達した「鎌倉街道」の一つといわれる。旅人は、この五本の大きな樹木をながめながら、鎌倉へと道を急いだことであろう。

「昼間でさえ、身の毛がよだつほど薄暗く、元気のよい若者でも通ることを恐れた」とは、明治の初めごろの様子を語った土地の人の言葉。今の五本木小学校辺りからわき出ていた水を利用した野菜の洗い場もあったという。今日の様子からは想像すらできないほどのんびりとした農村「五本木」に、宅地化の波が押し寄せる原動力となったのは、昭和2年の東横線の開通であった。

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