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目黒の地名 自由が丘(じゆうがおか)
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の地名 自由が丘
現代感覚にあふれるしゃれたショッピング街と山の手らしい閑静な住宅街が共存するまち「自由が丘」。今日のそんな町並みにいかにもふさわしい斬新な地名だが、その由来は、東横線・大井町線が相次いで開通した昭和初期にさかのぼる。
現在の緑が丘地域とともに、江戸時代以来の字名「谷畑(やばた)」の名で呼ばれていたこの地に東横線が開通したのは、昭和2年8月のこと。開業した駅は、現在は隣り駅の名、「九品仏駅」と名付けられたが、それまで畑と水田と林に覆われた田園地帯であったこの辺りには、以後、にわかに商店や住宅が建ち始め、同年11月には「谷畑(やばた)」の大根畑の丘の上に、私立の学園も建設された。これが、「自由が丘」の地名の発端として知られる「自由ヶ丘学園」で、自由教育を旗印に手塚岸衛氏が創立したもの。
さて、その二年後の昭和4年、大井町線が大岡山から二子玉川まで延長されるに際して、「九品仏駅(くほんぶつ)」が同線上の実際の寺の表参道口に設けられることになり、先の駅名を改称する必要が起こってきた。そこで、新駅名採用に当たって熱心な要望活動を行ったのが、舞踊家石井漠氏をはじめとする先駆移住の文化人。電鉄側では既に新駅名を「衾(ふすま)駅」と内定していたが、結局、大井町線開通の直前、「自由ヶ丘」を駅名として採用することとなった。
以後、駅周辺に移住してきた人たちは郵便物に「自由ヶ丘駅前O番地」と書くようになるなど、「自由ヶ丘」は次第に地名化し、昭和7年6月、耕地整理組合の努力もあり、これが町名として正式に認可。同年10月の区制施行による町名整備を待たず、「碑衾町大字自由ヶ丘」として新地名がスタートすることとなった。
自由が丘夜景(昭和40年ごろ)の写真
なお、町名「自由ヶ丘」が「自由が丘」に改められたのは、昭和40年1月1日の住居表示実施の際。駅名が同様に改められたのは、翌年1月のことである。
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