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更新日:2014年1月29日

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目黒の地名 柿の木坂(かきのきざか)

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 柿の木坂

「柿の木坂」は、環七通りと目黒通り、そして柿の木坂通りの三本の道で区切られた閑静な住宅地。そのほぼ中央を呑川の浅い谷が縦断しているところから、その名のとおり全域がゆるやかな傾斜地だが、この地名「柿の木坂」は、元来は、環七通りの交差点から都立大学駅辺りまで下る目黒通りの坂の名。現在は真っすぐでなだらかだが、かつての「柿の木坂」は、西側へ大きく湾曲した急坂で、神田や京橋の市場へ野菜を出荷するため、この坂を通らなければならない目黒や世田谷の農民たちにとって、道中屈指の難所であった。

さて、この坂の名の由来については、次のように諸説がある。

  • この坂のそばに、大きな柿の木があった。
  • この辺りには柿の木のある農家がたくさんあり、農民たちは野菜と一緒に柿を大八車に積んで、この急坂を上った。ここで活躍したのが付近の悪童たちで、車を押すのを手伝うふりをしながら、あるいは農民たちが一台を押し上げては次の車を上げるために坂を下りるその間に出没して、車から柿を抜き取っては逃げた。すなわち、「柿の木坂」は「柿抜き坂」が転じたもの。
  • 枝もたわわになった柿の木がよく見える坂だった。
  • 坂の両側には人家が少なく、夕暮れになると人の行き来のない寂しい坂だったので、人びとはこの坂を駆け抜けて通った。すなわち、元は「駆け抜け坂」。

柿の木坂陸橋(昭和44年)

なお、現在の東が丘と八雲の一部とともに「東根」の名で呼ばれてきたこの地に「柿の木坂」(当時は「柿ノ木坂」)の町名が採用されたのは、目黒区が誕生した昭和7年のことである。

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