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更新日:2024年3月25日

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目黒の地名 緑が丘(みどりがおか)

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 緑が丘

昭和7年10月1日に目黒区が誕生したのを機会に、町名変更が行われ、幾多の町名が姿を消す一方で、新たな町名も登場した。「緑ヶ丘」もその新しい町名の一つである。今日では「緑が丘」と表すが、当時は「緑ヶ丘」。住居表示の施行で「ヶ」が「が」に改められた。

緑ヶ丘一帯は、明治22年の町村制の施行で、それまでの衾村字谷畑(やばた)が碑衾村大字衾字谷上台(やかみだい)、谷畑東(やばたひがし)、谷畑中(やばたなか)、谷東前(やひがしまえ)、谷畑下(やばたした)、谷石川端(やいしかわばた)、谷向下(やむこうした)と呼ばれるようになり、昭和2年の町制を経て、7年に目黒区緑ヶ丘となった。その後、40年1月1日に住居表示制度が施行され、緑が丘一丁目から三丁目と自由が丘一丁目の一部となったのである。

そもそも「緑が丘」という地名は、緑の木立の多い高台ということに由来している。この辺りは、自然林に覆われた丘陵地帯だったのだ。呑川と丑川という二つの河川に二方が囲まれている緑が丘は、この二つの河川に滑り込むようになだらかな傾斜地になっている。どのくらいの傾斜かというと、緑が丘の境界に面している立源寺から緑ヶ丘小学校(昭和12年の開校で今日でも「ヶ」を用いている)までの約二百三十メートルの坂の高低差がおよそ十二メートルある。この傾斜は南向きになっており、見晴らし、日当たりとも、住宅地として格好の環境となっているのである。

この町を歩くと、道路が碁盤の目のように整然としているのに気付く。大正から昭和にかけて、つまり東横線や大井町線の開通と前後して、耕地整理が巧みに行われたのである。その結果、多くの新住民が移り住むようになり、自然林に囲まれた緑が丘は宅地として発展した。一時、海軍の軍人がたくさん集まったので、別名、「海軍村」と呼ばれたこともあったという。

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