更新日:2014年1月29日

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目黒の地名 三田(みた)

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 三田

「三田」は、区内で一、二を争う古い歴史をもつ地名。その由来は、遠く大化の改新以前にまでさかのぼるといわれている。

十世紀初めに編さんされた「倭名類聚抄」によると、古代、武蔵国荏原郡に「御田郷(みたごう)」と呼ばれる土地があり、その名は、大化の改新以前の天皇の直轄領地「屯田(みた)」に由来するものというのが定説。明治半ばまで旧目黒六か村の一つであった三田村の地は、古くは、港区の三田とともに、この「御田郷(みたごう)」に属していたと推定され、その後、十五世紀ごろまでに、港区三田に当たる地域が「三田村」、目黒区三田一帯が「銀(しろがね)三田郷」と、二つの地域に分かれ、さらに江戸時代以降、「銀(しろがね)三田郷」が港区の白金村と目黒区の三田村とに分かれていったものとみられている。

なお、こうした経緯から、港区三田と目黒の三田は、ともに今日まで、現在港区三田にある春日神社の氏子という親しい関係にある。

しかし、江戸時代以降の両者の発展には大きな相違がみられる。港区の三田から白金辺りまでは町奉行支配地となって開けた一方、目黒の三田村は、その大半が幕領や大名・旗本の別邸などで占められたこともあるが、文化・文政の江戸繁盛期でさえ戸数十戸余り。三田用水から引いた滝が落ちる名園など、景勝の地としてのみ知られてきた。

明治以降、山手線の敷設やビール工場の建設など、開発の波に見舞われながらも、鉄道が掘割の中を通り、地勢が急なことから、近年まで、なお昔の面影を残してきた。しかし、平成6年10月に恵比寿ガーデンプレイスが開業し、この地域も大きく様変りした。

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