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更新日:2014年1月29日

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目黒の地名 六畝割(ろくせわり)

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 六畝割

六畝割(ろくせわり)は、今日の目黒本町一丁目地域をいう。かつては「こなべの」と呼ばれていたというこの地域が、いつから六畝割(ろくせわり)になったのであろうか。

清水庚申

明治21年に碑文谷村戸長役場が編さんした「碑文谷村村誌」に字六畝割という地名が記されている。以後、昭和7年の市郡合併により目黒区となった際に、周辺の字谷頭、池ノ上、東池下を含めた地域が清水町と改称されるまで、六畝割の地名は残っていた。さらに、昭和41年3月施行の住居表示により旧六畝割地域は目黒本町一丁目となったのである。

ところで、畝とは尺貫法でいう田地面積の単位で、一畝は一反(段)の十分の一、これをメートル法で換算すれば約一アール、百平方メートルである。従って、六畝は六百平方メートルの田地ということになる。ちなみに、同町一丁目11番の区立清水東児童遊園の敷地面積が四七六・九三平方メートルだから、それに約百二十平方メートルを加えた広さということになる。

さて、六畝割(ろくせわり)の由来だが、江戸末期まで、この地域付近一帯は樹木で覆われ開墾する者もいなかった。そこで、明治十何年ごろか、時の碑文谷村戸長、角田長広氏が村の共有地であったその一帯を六畝ずつに区切って村の農民に与え、強制的に開墾させたことから、この地域を六畝割(ろくせわり)と呼ぶようになったといわれている。

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