更新日:2014年1月28日

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目黒の地名 駒場(こまば)

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 駒場

「駒場」は、駒込、駒沢と同様に武蔵野一帯にある「馬」にちなんだ古い地名の一つで、馬の牧場を意味する。「駒」とは馬のことであり、「場」は牧場を指す。ここで産出した良馬は、古代・中世にかけて軍馬として重用されたという。牧場だったのだから、一帯は広大な原野であったのであろう。その自然的特徴をとらえて、駒場を駒場野と称したこともある。

江戸名所図会「駒場野」

江戸時代に神田の名主が三代にわたって編さんした絵入り地誌「江戸名所図会」は、「駒場野、道玄坂より乾(いぬい)(西北)の方一四、五町を隔て代々木野より続きたる広原にて上目黒村に属し、ヒバリ、ウズラ、キジ、野ウサギの数多く御遊猟の地なり」と記している。享保期以後は幕府の御鷹場となり、鳥見役所が置かれ、広さ十五万坪、諸役御免の地となった。「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる…ズンベラ」という俗謡は、同役所の餌付御用を務めるキジ捕りの名人、川井権兵衛をうたったものという。

八代将軍吉宗の時代には、薬園も設けられたが、幕末になると、軍事教練が行われ、静寂な原野に銃声が響いた。明治時代になると、駒場農学校が開校され、近代農学発祥の地となり、また騎兵連隊などの兵営地区としても栄えた。今日では、東京大学教養学部、日本近代文学館など、文化と学術研究の町となっている。

明治22年の町村制施行によって、それまでの上目黒村字駒場は、目黒村大字上目黒字駒場となった。大正11年の町制を経て、昭和7年の目黒区誕生を機に目黒区駒場町となり、43年に住居表示化され、駒場一丁目から四丁目と青葉台四丁目になっている。

駒場の多くは、国の施設で占められていた。その一つ駒場農学校の後身、教育大学農学部の筑波移転跡地の一部を区が取得し、駒場野公園として整備、昭和61年に開園した。

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